建物の中に足場が組まれたので、天井の上にあたる構造材を観察していました。きょろきょろと見回していると、見つけました。落書き。何とか太夫と読めます。何とか三郎の文字も発見。屋根を支える20センチ近い角材に筆で書かれていました。とはいってもこんな天井裏にわざわざ落書きをしに来た人がいたわけではありません。落書きのある柱が、あとで永楽館の柱として使われたのです。
古い建物ではよく転用材が使われます。今では新築する際、古い建物の柱を再利用することはめったにありませんが、古い建物ではちょくちょくあることです。永楽館の場合も見えないところでいくつかこの転用材が使われていて(回り舞台の機構などはその典型です)、この落書きのあった柱も、付近の他の柱はのこぎりで切ったままの肌をしているのに、この柱だけはつるつるで、よく変色しています。これはよく人の目に付く場所にあった柱だから、大工さんが丁寧に表面を仕上げたのだろうし、天井裏ではなく明るい場所にあったために変色したのだろうと想像されます。ではどこからやってきた柱なのでしょうか。
『出石町史』によれば、最初の永楽館は出石城二の丸の廃材を利用して明治7年に建築されたとあり、明治34年に建築された現在改修中の永楽館は実は2代目なのです。何とか太夫、といった名前はいかにも芸名で、この柱は初代永楽館のもので、落書きはそこで演じた役者の名前ではないかと想像しています。そうするとこの柱はひょっとしてさらにさか上って出石城二の丸の柱だったのかもしれません。ちょっと考えすぎでしょうか? |