復元工事のこぼれ話

 

~柱の落書き~
 建物の中に足場が組まれたので、天井の上にあたる構造材を観察していました。きょろきょろと見回していると、見つけました。落書き。何とか太夫と読めます。何とか三郎の文字も発見。屋根を支える20センチ近い角材に筆で書かれていました。とはいってもこんな天井裏にわざわざ落書きをしに来た人がいたわけではありません。落書きのある柱が、あとで永楽館の柱として使われたのです。
古い建物ではよく転用材が使われます。今では新築する際、古い建物の柱を再利用することはめったにありませんが、古い建物ではちょくちょくあることです。永楽館の場合も見えないところでいくつかこの転用材が使われていて(回り舞台の機構などはその典型です)、この落書きのあった柱も、付近の他の柱はのこぎりで切ったままの肌をしているのに、この柱だけはつるつるで、よく変色しています。これはよく人の目に付く場所にあった柱だから、大工さんが丁寧に表面を仕上げたのだろうし、天井裏ではなく明るい場所にあったために変色したのだろうと想像されます。ではどこからやってきた柱なのでしょうか。
『出石町史』によれば、最初の永楽館は出石城二の丸の廃材を利用して明治7年に建築されたとあり、明治34年に建築された現在改修中の永楽館は実は2代目なのです。何とか太夫、といった名前はいかにも芸名で、この柱は初代永楽館のもので、落書きはそこで演じた役者の名前ではないかと想像しています。そうするとこの柱はひょっとしてさらにさか上って出石城二の丸の柱だったのかもしれません。ちょっと考えすぎでしょうか?

~永楽館の土壁~
 永楽館の外壁は建設当時どうなっていたか。これは復原後の永楽館の姿を左右する大きな要素です。これを調べるために次のような調査をしました。
まず壁があまり傷んでいない場所を何箇所か探します。そしてそれぞれ順番に壁土をはがしていきます。一般に古い建物の土壁は、竹を幅2センチ前後に細く割ったものを縦横に組んでまず骨組みを作ります。そしてここに荒土と呼ばれる土を塗って、壁の本体を作ります。これを荒壁塗りといいます。次に中塗り、上塗りと順にきめの細かい壁土を塗って仕上げます。つまりこの行程の逆に、壁土を順にはがしながら壁の構造を確認する作業をしました。その結果永楽館の壁もこの一般的な方法で、仕上げられたことがわかりました。ただし道路側やお客さんの出入りする西側と北側は漆喰(しっくい)と呼ばれる白く目の細かい壁土を上塗りし美しく仕上げていましたが、人目につかない南側と東側は多少表面を手直しした荒壁仕上げの行程までとしていました。
しかしこの調査で、少しおかしなことがわかりました。白い上塗り仕上げになっていた西側と北側の壁土の下から現れた中塗りの壁土の表面が、ずいぶん汚れていたり、長い間風雪にあったように風化していたのです。たとえ途中で痛んだ上塗りを補修したとしても、全体にそのようになることは考えられません。つまりこれは中塗り仕上げの状態であったものが、後年その上に白い漆喰を上塗りしたと考えられるのです。
昭和9年に永楽館では内部観客席や出入口の大改修が行われました。外壁についても修理するため、道路にはみ出して足場を組むことを、道路を管理する警察に許可申請した書類が残っています。道路に面した西側と観客の出入口のある北側は、この折にきれいな白い壁土を上から塗って仕上げたのかもしれません。
このため、今回の復原工事では西側と北側については外壁を建築当初に合わせて、中塗り仕上げとしようと考えています。同様の例には同じ城下町に残る酒蔵があります。出石地域で産出されるあの赤い土壁で永楽館はお披露目される予定です。

~永楽館の窓~
 永楽館の二階外側の窓枠はかなり傷んでいるものの、木肌に青い塗料が残っています。おそらく近くにある明治館(旧出石郡役所建物 明治20年建築)と同じような青い色の窓枠だったと考えられます。
さらにガラス窓の外にはよろい戸と呼ばれる両開きの扉が取り付けられていたことがわかっています。
でも洋風建築の明治館と違って、まったく和風の建物であったこの芝居小屋に、なぜ青い色に塗った窓が取り付けられたのでしょうか。
『出石町史』には、この窓はむかし弘道小学校で使われていたものが、再利用されたことが記されています。豊岡市立弘道小学校は明治5年に近代国家の制度として取り入れられた学制に基づき、いち早く出石小学校として設立されたのがその始まりで、後、江戸時代出石藩にあった藩校弘道館の名を受け継ぎ弘道小学校と改称されました。明治11年、現在豊岡市出石総合支所のある旧出石城三の丸跡に建てられていた校舎が、明治34年に建て直され6月15日に竣工しています。永楽館は同年6月26日に開演式を挙行していますから、ほぼ同じ時期に落成したことがわかります。
永楽館建設に当たってこの窓枠が転用されたという記述は、この竣工年月日の一致からも裏付けられますから、おそらくそうであったのでしょう。近代国家を目指し、官公庁の建物に洋風建築が取り入れられていた時代に、明治11年の弘道小学校建物は、明治館と同じような(明治館もその当時は弘道小学校と同じ出石城旧三の丸跡に建っていました)洋風の建物であったと思われます。そしてその青い窓が永楽館の窓となって再び使用されたわけです。
和風の建物に青い洋風の窓は少しミスマッチな気もしますが、『出石町史』は「この窓は大変印象的でよく目立ち人々の記憶に残った」としており、大切にこの窓も復原したいと思います。

~宙吊り~
 永楽館の工事に着手した頃から、気になっていた仕掛けがありました。舞台上の天井裏にロープを巻き取るような木製の装置が、2つ並んで太い柱に取り付けてあるのです。よく見るとすぐ斜め上には滑車がいくつかぶら下がっています。
巻き取ってあるホコリだらけのロープの一本を伸ばし、滑車をくぐらせ下にたらすと、ロープの端がちょうど舞台床板につきました。
ここまでくれば、この機構が役者を宙吊りするためのものであることはほぼ理解できました。しかし新たな疑問が出てきました。ロープを巻き取る部分をよく見ると、ロープを取り付ける穴が2つ付いているのです。つまり2本同時に巻き上げる仕組みとなっているのです。また同じ巻き取る仕掛けが2つ並んでいるわけですから、隣り合わせに裏方が並んで息を合わせて作業をすれば、同時に4本のロープを巻き上げることができます。
ちなみに調べてみると、江戸時代には舞台上で役者を吊り上げる仕掛けに「大もっこう」と呼ばれるものがありました。たたみ半分ほどの板に紐を取り付け、板の上に役者が乗って吊り上げるというものです。つまりゴンドラです。永楽館の仕掛けもこういったものだったかもしれません。またまったく別の大道具を吊り下げる仕掛けだったかもしれません。
実は永楽館にはもう一つの宙吊りがあったといわれています。花道部分のちょうど上、舞台から客席入り口側に向かって、幅5センチほどの細い隙間が天井に作られています。ここからロープをたらし、役者が宙吊りして演じていた、との口伝があるのですが、解体のおり、この隙間の上あたりをずいぶん注意して観察しましたが、天井裏には吊り下げるような仕掛けをみつけることはできませんでした。
現代の文化ホールには照明や音響装置があります。しかしそんなもののなかった時代に、芝居小屋の関係者たちは「いかに観客を楽しませるか」に知恵を絞り、廻り舞台、花道、せり、宙吊りといった機構を考案しました。永楽館を復原するに当たっては、こういった先人の知恵も大切に復活させたいと思っています。